もやもや
京都で暮らしていると京都にかぶれてくるのか知らないが、毎週末段々と色々なお寺に行くようになってきた。
そこで静かな時間を過ごすことに喜びを見出している。
その中で自分がいいと思ったことを少しずつ引っ掛けるようにしている。
この頃はエッセンシャル仏教という本を読んで仏教を俯瞰してから各論に入るための準備をしたり、旧約・新約聖書を実際に読んだりもしてる。
さて、そんなことをしていると、自分が昔絵を描くことが好きだったことに気づく。
描いた絵は都展に出されるなどもあり、小さい頃から絵にはちょっと自信があった。
中学に入ってからはなぜか絵が下手くそであるというレッテルを貼られ非常に苦しんだ。
そして絵がうまいことについてはさほど世の中では価値がないんだなと感じさせられて受験に身を投じていった。
僕の心は(他の要因もあるが)多くのトラウマを抱え、停止してきたままだった。
だから毎日セカセカとして眠れないし、だからと言ってすぐに力がつくこともない。
本屋で「ファスト教養」なんてタイトルの本があって、手に取る気も起きなかったが、自分の行為は全て「ファスト成果取得(した気になれる行為を重ねる)」だったと思い至った。
さて、そんなことを思いながら自分もまた美術というものにもう一度向き合ってみるか、と思いゆっくりと生きていた。
ある日、寺の帰りに心休まった体験に心をほくほくとさせながらchromeブラウザでレコメンド記事に目を通した。
気になったので開いて読んでみた。
note.com
シンプルな衝撃を受けた。
「仏像がある場所で物が浮いてたら神秘的だし信仰したくなっちゃうよ」と思っただけなのだが、その発想自体が浮かぶことになぜか嫉妬と尊敬と苛立ちとを覚えた。
まず嫉妬である。「仏像がある場所で物が浮いてたら神秘的だし信仰したくなっちゃうよ」この言葉に嫉妬の意味が集約されている。こんな発想思いつかなかったぞ・・・となった。
次に尊敬である。やはり落合陽一氏は天才的だなと思った。影響力のある論文を書いたり、自分の会社の株式を外国の証券市場に上げたりなど、正直尊敬できるところしかない。
それだけでなくああいう美術作品群を形成できるのか・・・とその感性に衝撃を受けた。
最後に苛立ちである。「俺はこんなことをしていて良いのか」という自分への苛立ちである。
整理
さて、整理する。
私が今まで大きく力がついてこなかった理由、それは一言で言うと「すぐ成果が欲しくてたまらないのだが、何か身についてないと心が折れてしまい長時間毎日取り組む行為ができなかった」からである。
受験勉強、大学院受験はこれで失敗したし、職業プログラマとして28歳にして大したことないのもここが理由となっている(と思ってる)
すぐ成果が欲しいのは何故か?と考えた結果、「他者と比較し続けるから」が理由であった。
他者と比較して自分に不足している箇所を補おうと必死になる行為は、力がつくかもしれないが、辛い毎日を送ることになる。
何が辛いかというと、他者と比較したところで差分を埋めても、目的が存在しておらず、単に差分を埋めること自体が目的となっているので、その行為がただひたすらに空虚に思えてくるようになるからである。
自分の人生は無意味であるように感じることが多くなる。
比較して他者との差を必死に埋めようとする行為は無意味であることを意識することができていなかったので、私は苦しかったのである。
本日読んでいた行動経済学の本にも書いてあった内容も思い出した。
「自己受容と言う意味合いだが(中略)入ってなかった。欧米ではこれが当然のことのため、指標に入ってなかったようである。」
さて、この文に従って「鋼のメンタル」と言う本で読んだ「自分の今の状態を受け入れる」と言う言葉を思い出し、電車の中で実践してみた。
結果、僕と言う存在を受け入れることでホッとすることがわかった。
どうも僕は比較する癖が強すぎるらしい。自分の今を良いこととして受け入れるようにした上で、改善した自分を想像して好きになれるようにしていきたいと思った。
整理2
書いているうちに尊敬するPdMから頂戴した言葉を思い出した。
「〇〇さん(私のこと)、もっと気楽にやっていいよ。大丈夫だから。」
さて、自分がこんな言葉をかけられるようになった経緯だが思い出してみるとざっとこんな感じな気がする。
- 2社目の会社でこんなふうに言われる。「君は実力がない」「俺は実力がない奴は認めない」「いっぱい働かなきゃね」
- 4年前くらいの自分、間に受けて過ごす。実際朝出勤2時間前くらいには会社の近所のコメダで勉強してから出社する。給与低いのに500円以上もするコーヒーを飲んで。
- 教えてくださいと頼むと「はあーあ」「チッ」とかされるようになる。
- 他人に聞かずになんとか自分でできる方法はないかと模索する。伸びず苦しみまくる。
- 3社目に転職した際、師匠みたいな方から猛烈に批判を喰らいながらプログラミングを学ぶ。プログラミングができないからできるに変化したので感謝している。代償としてトラウマを追加で取得する。
以上の経験からなのか、
- 力を示せない場合(できるやつは仕事ぶりからすぐわかるから自ら示さなくても理解できる)、そいつは雑魚認定。年齢の割にできない奴は論外。
- その思考なので、人にできないところを見せないため猛烈に頭を回転させ、他人を頼ることがなくなる。
- 結果、現職で他人とやった方が早い仕事で進捗が遅くなることが現職に入って初めて発生する(つい最近)ので謝りまくる。
と言う感じだった。
結果、尊敬しているPdMは自分がMTGのたびにめちゃくちゃ謝っていることからメンタルケアが必要だと判断して30分ほど自ら会話してくれた。
とはいえ普通に間に合うレベルで仕事はしているので、進捗の悪さではなく、メンタル大丈夫かなと言う感じで声をかけてくれたらしい。
さて、僕の思考回路は、人に聞く前に猛烈に調べておかないとダメみたいな感じである。
一時期はそれが良いと思っていたし、それが周りに有能さを示すと思っていた。
というかそうしないと舌打ちされるし使えない奴認定が強く焼印として自分に深く深くつけられると思っていた。
強迫観念である。
別にそうしなくていいよってことらしい。
「多分今いるチームのエンジニアがご年配複数いて、彼らがすごく優秀だから引いてるのかもしれないけど、むしろたくさん設計レビューとかもらえる機会だから、有効活用しちゃえばいいよ。誰も気にしないよ。そんなこと。」などと今まで接してきた年配エンジニアとは180度違うエンジニア像を提示されて衝撃を受けた。
色々書きすぎてだんだん書きたい内容がわからなくなってきたが、一つ分かったのは、「トラウマの結果、人にレビューを依頼するのが怖くなってしまっていた」だけであった。
頭の中に猛烈な批判者を召喚し、自分の設計にレビューを加えるのだが、その批判者は僕の人格まで攻撃してくる厄介な生き物だった。
今まで僕なりに生きるための生存戦略だったのだが、どうもいらんらしい。
僕は今そんな立場なので、自己受容し気負わずコツコツとか考えず、肩の力を抜けばいいらしい。
整理3
こうやってまとめてみると、僕はトラウマに侵食され続けてきた結果、自分の心を見失っていたみたいだ。
トラウマ・・・と言うよりは「他人が自分という器に投げ込んできた毒の槍の集合とその傷跡」だろうか。
それが今までの僕の行動を規定してきている。
僕は他人の言葉に傷ついてきたから、幸せになるために汚れた器にきれいな水をたくさん入れていく必要がある。
ああ。僕の毎日の行為は自分にいっぱいのきれいな水を心に注ぐことなんだな・・・。
だから、他人と比較して嫉妬の炎に燃えてしまうとか、他人に対する怒りを蓄積するとか、
そういうのじゃなくて、小さいことでもいいから毎日良かったこと・感謝したいことを集めていって、心を回復する必要があるんだな。
そんな中で、自分の心がきれいな状態で幸福に満ち溢れた時、何か見えるんだろうな。
整理4
曽祖父の1回忌で祖母のところに行ったとき、詳解システムパフォーマンス第2版に目を通していた。
心が透き通っていた。
著者はなんと自分がこの業界に飛び込むことになったきっかけをつくったビジネスモデルを持つnetflixでエンジニアをしていたというではないか。
しかも自分がこの業界に入ってから気づいた「システム負荷の高さに対抗できるエンジニアにならないといかんな」という肌感覚に対して一つの解答を提示してくれている本だったじゃないか。
だから、帰る日の朝、ものすごい縁を感じて可能性にワクワクして京都に帰ってきたのではないか。
なのに仕事とそれに伴う負の感情や、自分が自分で生み出す呪いのような言葉に蝕まれているのはなぜか。
それは僕が比較するという行為に明け暮れる習慣になじみすぎており、自分を見失っていたからである。
整理5
というわけで今後のルーティーンを今までのルーティーンに組み込んで生きていくことにしよう。
- 朝起きたらジムへ
- ジムの後は散歩へ。もしくは朝ごはんを。
- ご飯の後はコーヒーを。
- 仕事を。
- 寝る前にはスマホをやめる。
- 寝る前に良かったこと、感謝したいことをまとめ、自分の器にきれいな水を注ぐ。
・合間を見てatcoderを1問やる。
・詳解システムパフォーマンスは僕の道標である。読める幸せに浸る。(実際、僕が業界に入ることになったきっかけ、そして大きなテック企業を作るうえで必要だと感じたことに対して道を示している。読めることが幸せだし、曽祖父のために行った青森で体験した「青森での開眼」とも呼べる事象を思い出しながら読んでいると幸せになれる。)
整理6
とはいえまだモヤモヤはある。
寺社に限らずガウディの建築もそうだが、どうしたらあんな素晴らしいものを創造できるのか。
おそらく過程は大事なのだが、その過程を真似してなぞるだけではよくない。
僕はあの素晴らしい芸術をどう作り出そうか。
谷川潤一郎の陰翳礼讃もだ。
よくもまあ俺が「これ好きなんだよな」と考えていたものをあの感覚ではまだ味わってないものを味わった上でより広範に、そして言語化してくれたもんだ。
ちょっと腹立つ。
整理7
ブログを頭から読み直していて思ったのだが、結局は目的を持って行動していく、ただ、その目的は何か強い芯が存在する必要がある。
だから、目的に向かってひたすら行動するだけである。その際の苦難は全て、自己受容を忘れないことによって超え、目的が達成されるよう動いた結果、他人との比較が指標として入ってくる分には問題ない。
重要なのは目的意識を持ち、そこに真に向かい続けること。そして自己受容し続けること。
それだけのような気がする。
追加パッチ
Claudeに入れて会話してみた。
対話した結果、自分がどういう考え方に至ろうとしているのかわかった。
今や悟りは人と話すよりAIと対話する方がはやいかもしれない。
申し訳ない。最後のあたりはそう書いたつもりはないんです。
努力するにしても、目的を中心に据えること、目的を達成しようとする中で受難はあるだろうが、自己受容していればそれはあくまでも目的達成のために不足していることであって、目的を達成できてない自分という考え方から離れ、自分という存在と目的達成のために克服しなければいけないことを分離できることを言いたかったんです。
自己という存在はそれ自体が完成されており、目的を達成する上で必要な行為は全て最悪捨てても良い後付けのパーツになるイメージです。