京都日記
京都で暮らし始めてから数ヶ月が経った。
新居に慣れ、ようやく京都を楽しみ始めた。
ラーメン屋とプロダクトデザイン
今日は鴨のラーメンを食べに行った。店の雰囲気は小洒落たレストランだった。
ラーメンの器は、レストランに行くと出てくるポタージュの平皿を深くした形だった。
蓮華ではなくスプーンでスープを飲む方式であり、試しに通常のラーメンのように器に口をつけて飲めないか試した。
しかし、想定通り、平皿の縁なわけだから飲みにくかった。
結果的に、レストランでスープを飲む時の後半の動作のように、器を外側に傾けて掬って飲んだ。
ラーメン屋でこのような体験をするとは思っていなかったと同時に、皿のプロダクトデザインが自分の行動を規定していることに気づいた。
いや、ラーメン屋からすると、レストランでの動作を客がするようデザインしたのだろうか。
どちらかというと、レストランのような体験として作り込んだ結果、レストランのようなデザイン(視覚・味覚・嗅覚・口触り・体験)になったのだろう。
1つのよく作り込まれたプロダクト(体験)に触れたと思う。
魯山人展
元々、ラーメンを食べた後の予定は、高島屋に新しくできた蔦屋書店に行くつもりだった。
しかし、鴨ラーメンの店から高島屋に向かう途中、魯山人展を見つけた。
文字に反応はしたものの、名前しか知らない人の展覧会など見て理解なぞできるのか、と思いスルーしようとした。
しかし、玄関から微かに見えた皿の美しさにギョッとして思わず入ってしまった。
なんの皿かはわからないが、大皿で模様がついていた。別に派手なわけではないが、落ち着いた色味を持っており、不思議と惹かれた。
1200円でチケットを購入し、順路となる2階へと向かった。
いくつかの作品が展示されていた。個人的にはあまりパッとしなかったのは、順路の最後に体験したものが印象深いからだと思う。
魚の形をした皿は今までも市販でいくつか見た気がするが、魯山人の魚の皿は本当に泳いでるようだった。そして可愛らしさがあった。
これで何か食べたいなと思った。
次の順路は5階であった。
エレベーターは時々ギシギシとチェーンが歯軋りするような音をさせ古さと焦りを感じさせた。
5階ではちょっと驚きの体験をした。掛け軸、木の板の上に大皿が乗せられ、大皿から飛び出すよう配置された木の枝(梅?桜?なんだろう)がゴトリと存在していた。そしてその先の右手には屏風、そこから少し奥に行って左手には掛け軸がかかっていた。
配置に何故か感心した。
単なる畳の部屋であればなにも思うことはないのに、作品が配置されているだけで調和し落ち着く雰囲気を出していた。
そこからさらに視点を変えると、屏風の奥の方に白く大きい壺に枝が切り取られ生えているかのように立てられているのが見えた。
正直なところ、この白い壺がなければこの部屋には感動しなかったな、と思った。
というのも、配置自体に感心はしたものの、数十秒後にはちょっと飽きがきていたことに気づいたからだった。
しかし、似たような色調の中に白が入り込むことで、驚きを与え常に新鮮な感覚が保たれていた。
みる角度が変わることで美しさが変化する、初見の感心が復元される、という作品配置の仕方が凄まじかった。
ちなみに、帰りの電車で呼んでいたエッセンシャル仏教という本にも、著者が庭師の友人2人(アメリカ人とイギリス人)を龍安寺の石庭に連れて行ったら、どこの角度から見ても全ての石を見える場所がないという配置の仕方に感心していると書いてあるのを見つけた。
なるほど。どこの位置から見ても全てが見えないこと、というのは人間に常に新鮮さを保つ作用を与えるのだろうか。
魯山人展の最後は地下であった。
地下ではっきりとしたのは、自分は魯山人の作品群の中だと、大皿に木の枝が乗っているものが猛烈に好きだということだった。
魯山人は焼き物をいくつも作っているようで、正直欲しいくらいの器が多かった。できれば購入して明日から醤油ザラにでも使わせてもらえないだろうか、と思いながら見ていた。
が、やはり「ああ、俺の好きはこれだ」となったのは大皿に木の枝が乗っているものだった。
蔦屋書店
アートにまつわる書籍で固めており、最初の印象として、「アートという括りでフロアを2階分占有してしまうほど配置できる量が存在していて凄まじい」だった。
単なる配置ではないことは一目瞭然で、まるでモダンな美術館で手にとってそのまま購入できるような体験ができる、という印象を持たせる作りだった。
いくつかの本を手に取って思ったことがいくつかあった。
ルコルビュジエは全く肌に合わないし、ガウディの建築デザインは物凄く心を震わせる細かさで見ているだけで小さい頃になにも考えず作り込んでいたことを思い出させてくれて好きだと思った。
僕はバウハウス的なあり方は好きだし、ウェッジウッド(バウハウスより前から存在している)の工業に芸術を浸透させるあり方が猛烈に好きだし、いちいち技術発展で既存のアート(デザイン、芸術だのと呼ばれるもの)が死んでしまうからそこを見直そうなどと言い出す輩には「もっとウェッジウッドやバウハウスのように技術革新による生産性の効率化の中に美しさを取り入れる努力ができないのか?」と殴り合いの喧嘩を仕掛けたくなるというのもわかった。
詰まるところ、僕は直線的すぎたり、無地すぎたり、単純すぎるデザインが嫌いで、細かく丁寧に情熱を持って作り込まれたものに対して共感するにも関わらず、生産性の向上という側面に対して一定の理解とあるべきという感情を持っていることがわかった。
べき論を持っているから相手に殴り合いの喧嘩をふっかけたくなるんだなと理解した。
僕は作り込まれた愛情を好むのに、作り込むと「時間の浪費」とみなされる価値観に押さえ込まれて苦しい思いをしながら生きてきたのだろう、と思った。
この辺りは誰に影響を受けたのかははっきりしているのだが、ではその価値観にどう決着をつけていくかが僕の今後の在り方を規定するポイントとなってくると思った。
最後に
こちらにきてから僕は自分という人間内部の回復・復旧作業を行なっているようだ。
ようやく人生が始まった気がする。